精神的な親殺し
いきなりハッとするタイトルでびっくりした方もいるかもしれませんが、「青年期の通過儀礼としての精神的親殺し」と言われると、自分にもあったと思う方は多いかもです。
なぜ、親のやることにむかつくのか、「親、死ね」「親、殺したい」と思うのか。
たとえば右肩上がりのバブル期に青春を謳歌した父親は、「一流企業に就職して、一生安泰」と勧めますが、息子の方は、もはやそんな寝言が通じる世の中ではないことを肌で感じていて、父親の勧める未来に納得がいきません。父子の価値観が異なれば家庭のなかでの衝突は避けられないというわけです。そこで起こるのが精神的親殺しです。
これに似たことは親子間の事業承継時にもよく起こることで、親の預かり知らぬところで、たくましく成長した子と、社長としての威厳をかけて、ここから先は絶対に通したくない親との闘いといっても良いでしょう。良い例とは言いがたいですが大塚家具を考えれば、なるほどあれかと腹に落ちる方も多いと思います。
子どもが自分の中で社長としての人格を確立し、一人前の経営者として生きていくには、その道の大先輩である親をいったんリセットし、乗り越えなければなりません。親である社長が偉大であればあるほど、綺麗ごとではなく、時には精神的に親を殺さねばならないほど、激しいものであると思います。またその対決には力と勇気が必要です。
さてその時に「ついにこの時が来たか」と親が一歩譲り、子どもに道を譲ってやるか、それともまだまだ成長が足りないと跳ね返すか、親の器量が試されるときです。
また子どもも、親に行く手を阻まれたときに、へなへなとその場に座り込むか、それとも人生を懸けて戦うのか、社長になる覚悟や気構えが試されます。
社長ともなれば、すべてのことに触りに行ける立場になる代わりに、すべてのことに責任を持つ必要があります。最終責任はすべて自分なのです。生半可な覚悟では務まりません。経営権の承継には、財産的や技術的な移転も重要ですが、精神的な独立も必要なのです。
(本文章は石田朋子さんのエッセイを参考にいたしました。)
【文責:飯沼新吾/プロフィールはこちら】